風の中 (夏の記憶 vol.9)
 そうして甲子園が終わって、街の夏祭りが終わって。
 知らぬまに日が短くなっていく事に気付かないまま。
 空が変わって、雲が変わって。
 あと何日、と、の頃の夏休みを数え始めた頃。
 いつもどおりに来た図書館の前で。
「何してんですか。こんなとこで」
 片山さんは一人ぽつんと、駐輪場の低い塀に座っていた。
「予備校、お疲れ」
「暑くないんですか?日焼けしちゃいますよ」
「ねぇ、竹田君」
「はい?」
「今日、送ってくれる?自転車じゃないの」
「いいっすよ」
「ほんと?ありがとう」
 よく晴れた日で、今日もまたひどく暑かった。
 なんだってこんな炎天下に彼女は。
 困ったような顔をして。
「あのさ。君は、野球部でしょう?」
「え…」
「西君にさ、よろしくってさ、言ってくれないかな」
「西先輩…」
「野球部のコーチに来てるでしょう?」
 いつも元気な西先輩。
 今でも少年のように純粋な西先輩。
 きっと僕たち3年生の多くは、西先輩にはある種の憧れを感じている。
 僕はきっともう、大学に入ったら野球はやらないだろう。
「俺、野球部て、言いましたっけ?」
「さぁ。でも、分かるよ」
 彼女は懐かしそうに笑っている。
「その黒いバックは野球部が使うやつだし、キーホルダーも駅前のスポーツショップがくれるやつだし」
 肩から斜めにかけているでかいバック。それから自転車の鍵をつけているキーホルダー。
 彼女は相変わらず懐かしそうに笑っている。
 懐かしそうに、淋しそうに、なんだか全て見通したように。

 僕は彼女の名前しか知らないのに。
 彼女はなんだって見透かしてしまうんだ…
 せっかく秘密にしてたのに。
 野球部だって言ったらきっと、先輩を重ねると分かっていた。





「西先輩と、知り合いですか」
「そうだな。うーんと、友達かな」
「友達ですか」
「そう。最近はもう会わないから…私さ、明日帰るからさ」
「帰るって」
「大阪なんだよね、大学。もう夏休みも終わりだからさ」
    大阪…
 だから時々、西の訛りが混じるのか。
「だから西君にあったら片山がよろしくって。頑張れって」

    なんで僕がそんなことを…
    西先輩に
    いってしまう彼女の伝言を僕が…

 僕の中で何かが静かな音をたてて外れる。
 彼女はきっと僕の気持ちを、見抜いているに違いないのに。
「そういうことは自分で言ってください。今日だってグラウンド行けばいます。会いたいなら自分で会ってください」

    僕なんかに伝言を頼まないで…どうせ割っては入れないなら
    どうせ代わりになれないのなら…

 真っ直ぐに向いていた彼女の瞳がすぅっと細くなって、小さく揺れ動いて何かを言い淀む。耐えるように引き締められた唇が震えながら、それでも笑顔を保とうと葛藤している。
 泣いたっていいのに別に。
 僕は、確かに年下だけれど。
 僕は、そこまで子どもじゃないのに。
「今はまだ会えないの」
 消えそうな言葉がようやく宙に浮く。
「もう随分経ったけど、まだもう少し時間が…」
 うるさいほどのセミの声が、もう、ツクツクホウシに替わっている夏の午後。
「だから片山は元気だって……ああ、いいややっぱ、こんな伝言。ごめん、西君には言わないで。私、もう、帰るから」
 泣いてしまえばいいのに。今、こんな明るい午後に、泣いてしまえばきっと楽になるのに。
 片山さんは、ひどく張り詰めたままで小さく笑っていた。

「もう、行きますか」
「うん」
「じゃぁ、このまま、送ります」
「うん。ごめんね。勉強しにきたのに」
「いえ、一日くらい、別に」
 

「この年になってこんな風に乗せてもらうことがあるなんて思ってなかったわ」
「いつでも乗せてあげますよ。チャリでよければ」
「ほんとは今日は載せてもらおうと思って、自転車置いてきたの」
「僕でよければ。乗りたくなったら呼んでくれていいです」
 僕は車もバイクも持っていない、あるのはがたがきはじめたこの自転車だけだ。
 こんな自転車一つじゃ、どこにも連れされはしないけど。
 僕は待っていればいい。彼女はこの街の人で、いつか帰ってくるならそれでいい。
 肩に押し当てられた指輪が僕にほんの少しの躊躇を与えても、こんな風な平穏な日がまたいつか訪れるなら。
 僕は、彼女を乗せて走れるならそれでいい。
 彼女が誰を好きでも。
 例えば今思い出を辿っているとしても。
 肩にかかる柔らかな重みは、確かで。
 だからそれだけでいい。今はまだ。
 それだけでいいのに。
 そんな些細な願いだったのに。

「私ねぇ」
「はい」
「卒業したらたぶん向こうで就職するから、もう戻っては来ないと思う」
「そうですか」
「うん」
「そうですか」

 僕は、力を込めてペダルを踏みこむ。
 せめてスピードを上げて。
 風を浴びるように走り続けたかった。

「伝えましょうか、先輩に」
「ううん。いいや。やっぱりもういいや」
「片山さん」
「何?」
「遠回りしても良いですか」
「うん。ありがとう。疲れない?」
「若いから」
「そうね。若いもんね」
「飛ばしていいですか」
「うん」
「怖くないですか」
「うん。風がとっても、気持ちいい」
 夏の日差しの中で、彼女のふわふわした髪は、風になびいてきらきらと金色に透けているだろうか。前を向いている僕にはその様が見えないことを、ひどく残念に思う。



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by ichimen_aozora | 2004-12-31 01:46 | 夏の記憶
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