記憶
 小さな部屋の小さなソファーで。おもむろに腕を伸ばして首に絡める。
 引き寄せた顔に、ふわりと唇を寄せながら反射的にふと目を瞑る。
 近くに寄った首の向こう側で、腕が余っているのが分かる。こういうとき、私の腕って長いなぁと、どうでもいいことを再確認したりする。
 もう慣れた感触。唇の柔らかさは、人によって違うよな、なんてことも知っている。
 触れてふと離れて。戯れるようにもう一度触れたら急に、背中に強く腕を回された。
 ちょっと苦しい、と思う。のしかかるように斜め上から見下ろしていたはずなのに、あっという間に視線が入れ替わる。やっぱり力は強いな、と思う。
 回していた腕を解いてソファについて体を支える。倒れてしまう事のないように。その間も、首と肩と背中にかかる重みを感じていた。
 唇に触るのは、さっき私がしたみたいな微かな感触ではなくて。その柔らかさも何もかも、押しつぶすような荒っぽさだった。
 のったな、と思う。罠にかけたわけではないけれど、誘ったのは私だろうか。
 首に手をまわしたのは無意識だったけれどそれでも、強く引き寄せられる事を狙っていたんではなかったか。
 強く、抱きしめられた背中が痛い。重みを支える腕も肩も首も、緩やかにしなっている。
 目を開けないままで、自分で仕掛けた結果を受け止めながら、でも。
 私は始終冷静だった。ずっと。目を閉じたままで。

 この人の中で。私の存在はきっとずっと長く残るだろう。
 いつか、今ではない未来に二人が別れてしまったとしても。
 この人の歴史のなかに私はきっと残れるだろう。
 私の中で、この人が残るかどうかは分からないけれど。

 そう思うと、ちょっとした優越感が生まれた。冷静な頭の中で。
 そしてひどく、愛しいと思った。今、誘われて身を寄せるこの人のことを。

 嘘ではないのだ。何一つ。嘘ではない。
 愛しいと思ったことも。手に入れたいと思ったことも。
 偽りはない。誤魔化しもない。
 ただ、始終頭のどこかが冷えている。
 無意識にする計算を、きっとでも、この人だって見抜いているに違いないけれど、それでも。
 誘われてくれるこの人が愛しい。きっと、本気で誘われてくれるこの人が愛しい。
 だから私はまた、身長の割に長めの腕をこの人の首にゆるゆるとまわす。
 支えを失った体が後ろに倒れていって、目を開けたら、彼の短い髪の向こうに白い天井が見えた。

 



 完全に倒れこむ前に、強く回されていた腕はとけた。今は肩の辺り。真っ直ぐに見上げると、見下ろした彼と目が合った。柔らかに目を細めると、彼は急にぎょっとしたように身を起こした。
 あ。我に帰ってしまった。
 ごめん、という声が聞こえる。
 ごめん、つい。と。
 謝ることはないのに。私が誘って、あなたがのっただけなのに。
 でも、そんな事は言わない。言わなくてもきっと、気付いているでしょう?
 それでも彼は謝る。そして私は小さく笑って、また、ふとした瞬間に引き寄せて唇を寄せるのだ。そうやって、繰り返す。繰り返し繰り返しながらずっと、日々は流れていくのだろう。

 この人の記憶の中に、きっと私は残るだろう。
 私の記憶の中に、この人は残るだろうか。
 残るだろうか。

 よく、分からないなぁ。と、思って一人でちょっと静かに笑った。
 だいたい、この人の中に私が残るのかどうかも本当は全然、分かるはずもないくせに。
 ばかみたい、ねぇ、私。
 一人で小さく笑っていたら、不思議そうな顔で、覗き込まれていた。

「なに笑ってるの?」
 そういった彼だって、穏やかに微笑んでいた。
「何となく」
「そう」
 先ほどの荒々しさはすっかりどこかに消えていて、彼の手が私の髪を梳く。ゆっくり。ゆっくり。
 とても優しい。この人はいつも、とてもとても優しい。

「やっぱり色、白いねぇ」
「そう?」
「ここ、赤くなった。ごめん」
 そういって、肩の辺りをそっと撫でていた。さっき彼の手が、置かれていた場所。
「ちょっと強く当たると、すぐ赤くなっちゃうのな」
「うん」
「ほんとに、色、白いなぁ」

 でも大丈夫なの。肌が弱いわけじゃないから、すぐに元に戻るの。
 白くても別に、繊細でもないの。全然。
 そう思っていたけれど、言わなかった。
 彼が優しくしてくれるのなら、それでいい。優しく撫でてくれるのならそれでいい。

 変化の乏しい、何も変わらない日々がくるくると続いていた。
 飽きるとか、飽きないとか、そんなこと、考えたこともなかった。
 このまま、永遠にこのままだって構わない。
 彼の中に、私が残らなくても。
 私の中に、彼が残る事がなくても。
 知っている。これは、幸せだ。
 この安らかさは、幸せだ。
 私は今、幸せの中にいる。
 彼の手が暖かい。肩と髪の辺りを行き来するその暖かい手を取ってそのまま、冷たい頬に押し当てた。気持ちがいい。そのまま目を瞑る。本当に、気持ちがいい。
 この人は、私のものだ。この人は今、私のもの。
 だから私もあなたのものだと、目を開けたら伝えようと思った。伝えよう、と思いながらしばらくじっと、そのまま目を閉じて、冷たい頬が温まるのを待っていた。
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by ichimen_aozora | 2006-05-26 02:25
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