葉桜の頃
    また寝てる……
 午後の日差しが柔らかい。昼食の後の5時間目、英語。あんまり面白くもない、一応異国語。確かに眠い。それは分かる。それは分かるけど。
 斜め前方で、右手にシャーペン、左手で頬杖をついてだいぶ前からぴたりと静止していた背中が、重力に負けてがくっと前にのめる。はっとしたように一瞬顔を上げて時間を確認してからまたもとの姿勢に戻る。や、ダメだろうそれじゃ。また寝ちゃうだろうに、と見ているうちにまたぴたりと静止した。しばらくしたらまたがくっといくに違いない。
 まだ入学したての4月だぞ。GWもまだだぞ。
 その大胆不敵な寝姿をさらしているのは、あろうことか肩までかかる髪を流した女の子だった。空色のブラウス、ひだひだのスカートにハイソックス。まじめな女の子風服装なのに、彼女の居眠りは別に、俺が見る限り、今日が初めてなわけでもない。

「次、かたやまー。おーい片山」
 教壇で英語教師がのんきに呼んでいる。
 あーあ。やっぱり。気付いてたのなんて俺だけじゃないよな。ま、厳しい感じの先生じゃなくってよかったけれど。
 片山さん、ねぇ片山さん、当てられてるよ。彼女の後ろの席の子が手を伸ばして突っつくと、えっと小さく間抜けな声を上げてようやく顔を上げた。
「では、35ページの18行目から最後の列まで」
 起きたのを確認した英語教師が、特に気にした風もなく淡々と指示すると、彼女はしばらく目を彷徨わせた後に教科書を読み出した。たどたどしい、というほどではないけれども別に凄く上手くもない普通程度の発音で、ただ、さして大きくもない声はきちんと響いた。
 恙無く読み終えて顔を上げたタイミングでまた指示が飛ぶ。
「じゃぁ訳して」
 沈黙。彼女の背中が、またぴたりと静止した。
 とりあえず、自分のノートに目を落としてみる。この先生、のんきな調子の割に想定よりもやたらに進みが速くって、ちょっとはやってきた予習の範囲なんてとうに超えていた。さっきから、必死に辞書を引いて作った訳文はたどたどしくっていまいちだ。
 当てられた彼女は未だ沈黙。
 ほーらみろ。こんな四月の初めから、寝てるから。
 他人事ながら、しんと静まった気配にやきもきしていると、視界の端で彼女が、何枚かページを捲るのが見えた。
「…中世において……」
 溜め込んでいた沈黙のことなどなかったようにしておもむろに口を開いた彼女が、淀みなく読み上げた和訳は、それはまったく、随分と綺麗な日本語だった。

 はい、じゃぁ次、と教師の関心が移って開放されると、彼女はまた頬杖をついた。窓のほうを向いてしまって横顔は少しも見えないけれど、なんともやる気がなさそうな気配で。
 でも、馬鹿じゃぁないんだな。綺麗な日本語、ていうか、完璧な予習?
 やわらかな春の日差しの中で、彼女は今日も、定まらない印象を纏っている。





 彼女、片山ちひろが、馬鹿ではない、どころかかなりできる奴だとクラス中に判明したのは、中間テストの返却日だった。高校入ってはじめての定期試験。
 一応は進学校、ということで、一人一人に配られたクラス内順位の書かれた個人成績表を、みんながさり気なさを装いつつも内心冷や汗もので確認する中で、彼女はひとり、相変わらずぼんやりとしていた。

「どうだった、片山さん」
 隣の席の奴が社交辞令的に声をかけている。
「んー」
「俺、やばいわ」
 ひらひらと白い紙を振るクラスメートを少し笑って眺めていた。
「これ、見てもいい?」
「別に、いいけども」
 無造作に伏せられている彼女の成績表を手に取ったそいつが、うわぁっと変な声を上げる。何事かと振り向いた数人の目を気にすることもなく続けて決定的事項を告げる。
「すげぇ。総合、クラスで一番じゃん」
 更に多くの生徒が振り返り、寄ってきて、あっという間に囲まれる。
 すごい、見せて。あ、ほんとだ。凄い。凄いね片山さん。
 垣間見えた彼女はなんとも、困ったような顔をしていた。得意そうでもないし、つまんなそうでもない。ただ、どうしたらいいのか分からない、というような苦笑。
 彼女の成績表はあちこちに回されて、ちょっと遠くから眺めていた俺もちらっと見た。確かに総合トップ。科目別で見ても、ほとんど一桁の小さい数字。卒なくそろえた万能型?隠れ秀才?てかこの人何者?
 ともかくこうして、片山ちひろはクラスでトップ、ということが、易々とクラスじゅうに知れ渡った。
 あんなに寝てるのに、と、俺は勿論思ったし、そう思ったのも、多分俺だけじゃなかったと思う。


 彼女が鼻持ちならない優等生ではないことや、孤高を気取って単独行動を好むような近づきがたい奴なんかではなくて、むしろ明るくてノリのよいタイプなのだとクラスの奴らに認識されるのは、もうちょっと、あと何ヶ月か後の話。
 ただ、実は完璧予習人間なんかではないことだけは案外早くに判明する。ていうか、むしろ不真面目?
 俺は以後、彼女がぎりぎりに登校して来ては、机にかじりついて誰かのノートを写させてもらっている姿を、度々見ることになる。
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by ichimen_aozora | 2006-06-30 03:37 | ひとり
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